from this

ぶんがくあいどるろっくんろーる

「MONTHLY ハロ通」佐藤優樹 ファミ通 2018 6/21号

表象の世界に引用される人物は例外なく、もとの人物の個性……来歴や人間性(? 曖昧な言葉だ。)、アイデンティティーと切り離され、あくまでその表象に表れた限りで語られなければならない。そこに選ばれる過程とは無縁であり、かろうじて理由のみが――当初のコンセプト通り、生産計画の一要素としての成功を収めた場合に――最終的な表象のごく一部へと還元されている。つまり、そのプロジェクトの一要素に還元されるために、その人物性はイチから再創作されるのである。それは参画した当人の企図、制作に携わった人物の企図を裏切ることさえある。

しかし、或いは、その「語らなければならない」という鑑賞者の義務感さえこのプロジェクトはあらかじめ含んでおり……かかる語りはすべて、ただこの「表象」へと向かうよう否応なしに、仕組まれている。こういった語りそのものが、一つの表象を支える。その再創造された人物を更に補強するための物語的な面をなす。
 
 
 
こうした前置きをするのは、この誌面グラビアがある意味では佐藤優樹への挑戦、でなければ佐藤優樹を期待した読者への挑戦とも受け取れるほど思い切ったコンセプトでもって企図されているからだ。
 
 
それは、ポートレイトというよりは能く計算して取り組んだ作品に近い。
 
むろんどういった形であれ、商業写真は構想をもとに構成とロケーションと衣装合わせといった、当初の企図の上に更なる段階を見込んだ「作品」ではあれ、それは当初の構想をより明確にする表現効果や、人物と背景、主題と副題の緊張関係を抜きにしてはおよそ成立しないものではある。
一方でしかし、今回ここに見出されるその企図は、一つの、純粋に一つの構成――そしてそれは物語的感性や疑似的体験からくるある情調を喚起するものでは”ない”――美的に表象されるべく配慮した統一的感性のみが己を構成し、またされている。その統一的感性に凝集するべくして、雑多な情調を喚起させる諸要素/段階はほとんど放擲され、およそナマのコンセプトそのものという感に近い。
 
それは、オーケストレーションに近い。そしてそこでは、佐藤優樹は演奏者でありながら、ひとつの音符である。
 
 
 
実物の鑑賞に移る。
ここで既に取り上げられ、またこれ以後にもほとんどの鑑賞を費やすことになるのは、全5ページに渡る誌面の、最初の2ページに絞ることになるが。
 
 
左ページの一面を覆うのは縦向きの誌面にちょうどよく収まるポーズの佐藤のバストアップ。
片腕を真上へ持ち上げ、肘を折り返すことで頭部を後ろから包み込むように支えている。もう片方の左手も下から上へと指し示す様に唇へ触れており、画面という形式に於ける縦のイメージを強調している。衣装をまとわずあらわになった肩から腕、そして顔面の肌色、瞳が媒介する長い髪の黒色が、誌面を細長く裁断する。
 
特に、たった今つまびらかにした上下へと行き違い、関節から先でまた出会うことになる両手の効果は素晴らしい。ここで画面を縦に行き来する視線が集合されるのが、こちらをひたと見据える佐藤優樹の顔になるという視線の誘導も実に効果的であるし、その不可思議なポーズを気にさせない、腕がほぼ一直線を以て画面を区画する安定した構図。安定したと言ってもそれは無機質に生産されたインダストリアルデザインのような、という意味での、人工美的な構図である。
彼女の黒髪は顔の両側を覆うようにまっすぐに垂らされ、この緊密な構図をより一層引き締める役を買っている。
 
だが、その無機的に、直線を強調するかのようにスあえてトイックなまでに統一的に示された構図が抑え込む被写体の肉感性が、かえって本来以上の有機性に輝きはじめ、見る者の禁欲を呼び覚ますことはありうる。
この直線は右腕を真上へ持ち上げるために力を抜いた左肩、そこを始点に描かれる二の腕の優美なふくらみ、他方、画面の奥のほうで控えめに窺えるばかりの、上昇のち下降の屈折を司る肘関節と、上腕のねじれ――上端は紙面の裁ち落としに巻き込まれて僅かばかりしか残らずに、大部分は正面向きの頭部の後ろに控えるばかり。腕かどうかさえ定かでないそのかたちの、それでも日頃は隠されている裏側の部分が陰を帯びて、青白く見えるのは非常に扇情的である――、斜め向きの腰からじょじょに半身を持ち上げつつ、最後に顔は完全な真正面を向くといった、捻じ曲がった上半身によって成立しているのであって、古典にも通う、構築性を果たしているのはただ人体のみによる。
左右の背景を置き去りにした、まるで迫ってくるような表現。とても肉感的な「人体」という点でマニエリスムに適った、アングルのオダリスクを想起させる。
 
初手からこうした挑発的な一枚絵を浴びせられた読者の心象は、ただならないものがある。が、それもただに人体の表象のみに還元されうる、即物的な価値しかない写真だったわけではない。
その衝撃は、誰にも明らかなように、融通無碍な「色」の支配に端を諸する。
 
さて、この見開きの2ページ目、右の誌面上部に大きく配されたほぼ等しい比率の、しかし横位置の一枚――こちらは横たわる佐藤の上半身が、左上へ頭を向けて置かれている、またも画面と構図の関係を活かした一枚――。その下部に2枚の、どちらもバストアップの横位置が並べて置かれている。
以上の計4枚のスナップはどれも同じ背景、同じ衣裳のもとに撮られた、つまり一連のコンセプトと見てよい。
 
その背景も、ぴったりと貼りつくドレスのような衣装も、そして2枚に現れるスカーフ(の様な薄い布……およそスカーフ的な用途とはほど遠い、闘牛を目眩ませるマントの様だ)の小道具も、どれもが赤の単色に揃えられている。
これが、何よりも増してこのグラビアが人目を惹きつけた第一の要因である。
 
その色は、ルージュやカーマインというような、それよりは少しくすんでいるのか、一言で言い表せずにもどかしい、単色である。
一面に広がり、どこまでも果てることがない赤の世界。そんな風景を連想する。
そして上述の最初の一枚などは、佐藤の上半身がこの色面を縦に寸断するがゆえに、この世界に溶け込む者、その中から生まれた同類でありながら、異物、そんな心象を喚び起こす。
 
赤の象徴的な意味、その言葉に付与される特権や、来歴が背負う習慣的な意味作用と言ったものが、ここでは拒絶される。そうした作用は他の色と共にあって、つまり他の背景や他の小道具の中で赤が発色し、自己を主張するとき初めて意味を持ってくるのであって、赤の単色は赤の単色を以て世界を駆逐するばかりである。
もっと言えば、他の色のない世界、他の登場人物、小道具と言ったものを寄せ付けずにこれら赤をまとう佐藤優樹だけで成立する、その秩序が独自に法則を運用している、絶対的、個別的に自律した「空間」をも想起させる。ここでは現実の様な有機的な身体、自然の法則や輸送、交通で結ばれ合う世界といったものから隔絶したものが表現されている。
 
 
こうした単色で、起伏もなく平面的な背景は現代に生きる者なればみながみな、一度は目にしていることと思う。ありきたりと言えばありきたりだが、その鮮烈さの種を誰もが記憶の底に埋めている、色褪せないデザインとして。
 
それはおそらく広告デザインの世界で目にされている。
 
初出や発展の過程をここで正確に叙すことはできないが、おそらく現代の我々に影響を与える範囲で時代の隔たった遠さにある、資生堂が展開する一連の化粧品広告を取り上げる。
 
 
今回のグラビアを見た者が、ここに見る赤の色味、平面的な背景から、こうした広告の表現をどちらが先ともなく想起するのは自然なことと思う。殊に、今回の佐藤もまた背景と近似色の口紅を用いているために、その印象はより深い。
むろん時系列的に、資生堂のそれが先行することで今回のものが影響下にあり、これ以外でも近年のTSUBAKIの広告も同じ路線にあると言ってよいだろう。
そのうえで更に、お互いがお互いを呼び合っている。
それはどちらも、この同じデザイン感覚の中に溶け込み、そこからいつでも新鮮なものとして浮かび上がるような近似、近接した表現なのだ。
 
 
この化粧品広告との関連で言えば、こうしたデザインはフランス人写真家Serge Lutensの企図による東洋趣味の採用という思想に革新があった。

f:id:nightu3u:20181203215330j:plain
f:id:nightu3u:20181203215351j:plain

f:id:nightu3u:20181203215452j:plain

f:id:nightu3u:20181203215707j:plain

f:id:nightu3u:20181203215740j:plain



 
 
 
 
人体の一部と、ピンポイントに取り入れられた差し色の統一感。そしてそれを裏切るかのように画面に広く取り入れられた鮮明な黒色。或いは黒色こそが部分と部分を媒介する原子ででもあるかのように、この3要素が親しく混ざりあう。
 
彼が資生堂とコラボレートした図版を、アトランダムに5点掲げたが、今回のグラビアに参照するにあたって引用した意図は伝わるかと思う。
 
彼の仕事の特徴と言えるのは、「平面としての」デザイン性に優れた大胆な構図、それでいてコラージュ的ではなく、洗練されたシンプルな視点を持つことだろうか。
 
そう言った独自の表現の中には、「自分が日本人ではないかと思っていた」と語る彼の、「日本」へのアプローチ――それは概念としての他国、民族性といったあいまいなポーズなどよりもっと明確な、「日本画」への思慕とも言うべき志向性が見て取られる。
 
それは形式としての日本画であって、つまり中国の山水画に由来を持つのだが、水墨画や肖像、季節画、風俗画、静物画など、掛け軸や屏風絵全般に表れた特徴として見てゆくことではっきりする。
(浮世絵、錦絵は含まないだろうが)
 
 
 
陰影を欠くことと引き換えに、強弱を持った輪郭で瞭然と対象を分かつ線の芸術。そして図と地の混淆。消失点も水平線も持たずに、遠くにあるものは霞たなびく雲の向こうや、消えた輪郭線の果てに宙に浮いている。近くのものは、手前に書かれている。
ここでは現実的な、もとい、近代科学的に基づいた「視覚」ではなく、あくまで画家の視線の赴くままに距離感は歪められ、書きたいものが、書かれたように存在している。
 
これは、西洋画が長年の課題とした遠近法による正確な大きさ、距離感の把握。並びに本邦でも江戸時代に並行して追求していた写実、そして色面の芸術とは根本的に思想を違える。西洋のそれが科学的、合理的な段階を積み重ねた近代哲学の歴史の賜物であるとすれば、東洋のこうした技法は非常に即物的な精神のなす芸術である。
 
 
やはりセルジュ・ルタンスにも、モデルと背景の統一感を目指して揃えられた色彩による図と地の混淆――図=主題でありながら同時に背景をも為している色彩の共謀――は見られる。
別のパターンを見ても、強烈なコントラストを以て背景からモデルをくっきりを浮き上がらせているが、そこでの非現実的なデフォルメ作用、お互いがお互いを引き立て合うような、緊密という程度を超えて共謀的とも呼べる作用は容易に認められる。そこには、大胆なデフォルメ、クローズアップ、カット・アンド・ペースト、トリミングから成立しており、琳派の精神を引き継ぐかたちを見いだせる。
 
西洋絵画風の鑑賞眼からすると、まず主題……テーマ、モチ―フ、最も劇的なものは、それを構成する緊密な世界像の中心に見えてくる。一点透視のこちら側と向こう側、天と地。こうした階層構造は、むろん神学や信仰が思想的基盤を為して発明された一個の装置である。
しかし、こうした目でこれらのデザインの世界に分け入れば、まず地平線はどこにもなく、別様の宇宙のごとき奥行きの無い単調な色面の広がりを目にする。求めるべき地の消失から突如、現れてくる図。奇形の、それ単体で自立する美的感覚からなる図が、新たな構造が組み上げられてゆく。
彼を見ながら、彼の存在はあの無関心な背景とのみ親しい繋がりを持つことが明らかになり、再び地が前面化してくる……しかしそこで再発見される地は、もはや図と等質な存在となっており……我々の視線は、この円環の中を永遠にさまよい、求めていたものがなんだったのかは、ついに分からなくなる……。
 
 
 
簡潔にしてまとめれば、一個の統一的感性によって企てられた表象にとって、モデルは”非”人称化されるということに尽きる。
 
佐藤優樹はここで”非”佐藤優樹と化し、被写体としての、もはやそれ以下の(むろん、役割としてはそれ以上の)事物化を果たす。
彼女が佐藤優樹であるのは、この画面の主にこちら側での印象操作による、背景からの切り離しが行われるその時である。しかしそうあってしまうとそれは、もはや誰でもよかったのだ。
 
否、そうではない。
「この」佐藤優樹はこの赤い世界に置かれたその時にしか生きていられなかったのだ。
佐藤優樹」であれば見えなかった、黒髪の輝きや、肩と東部のバランス、肌の地色と言ったものが”非”佐藤優樹化して初めて全体に還元される。或いは、こちらの世界、既知の佐藤優樹と接続して我々が見出すことになる佐藤優樹性(人格、及びそれを基に我々によって統御される身体性)を今回のコンセプトが断ち切ってしまうことで表象としての佐藤優樹の生命が生まれ、その中で生きることが可能になる。
 
その証拠に、見よ。横たわり髪を広げさせこちらを見上げる2枚目の図版では、こうした構図によく見られる誘惑や扇情的なムードは極めて慎重に、かつ徹底的に排他されている。それと言うのも衣装と共にスカーフの”赤”、今回の”赤”がこちらの常識にとらわれている視線を跳ね返すからである。
こちらの視線と、表現する/される者の企図との融和した場。その奇妙な二律背反、矛盾による、矛盾のない合致こそがここに佐藤が表象としてある積極的かつ本来的な意義、そして、そもそもからしてモデルに起用された理由だったのではないか。
その色彩のなかには既知のものはひとつとしてなく、また探ってゆけるような深みは更にない。ただただ世界を構成するマテリアルとしての赤色を彼女の身体と顔は纏っている。
そしてこの色と絡み合うのが、感情の読み取れない彼女の「視線」だ。
一種挑発的・挑戦的でもあるその視線は、図版4枚に共通してこちらをひたと見据えて、肖像としての今回のグラビアの、顔にもましてひとつの「顔」になっている。
 
 
 
こうした、予め設えられた環境のもとで初めてクローズアップされる人間の可塑性、融通無下に新しい生命体に変貌し、その中で生きられる生命力。その再発見。そうしたものがグラビアを鑑賞するひとつの醍醐味である。その文脈で言えば今回は、まさしく統一的な美的感性であろう。
 
 
――さて、ここまでが今回の企画を語るための素地。理論としての大前提であり、構成を概括してみたに過ぎない。
言わばバックボーンであり、ここからいよいよより深い読解に至るべきだが、基になる図版も少ないことではあるし手短にポイントをつまむだけに留める。
 
 
これまで”赤”がこの表象世界を為す基盤であり法則であると大胆にも定義してきたが、ここでは先立って整えておいたように佐藤が辛うじて人体を保っていることが鍵と……つまり人並みの肌色、黒髪というものをそのまま移流させているばかりに……なり、当然、既知の視線は、この世界がまったくの別天地ではないことを了解している。表象の世界と鑑賞の対象はあくまで別である。
(”まるでどこかの世界のようだ”という認識は、暗々裏のうちにその対象が”これはまさに我々の世界の中で生み出されたものだ”という事実を了解している思考があって初めて成立する)
それは佐藤が、上述のようにどれだけ役割として小さくなろうと、或いは寸断されようと、事物化されていようと、赤を纏い赤から生まれていようが……結局はどこまでいっても佐藤でしかない、予め佐藤優樹を知る我々にとって、我々の”既”佐藤優樹像はこれ以上分割されえないものだという事実と同じである。
逆説的だが、ゆえに、表象のうえでは、どんなふうに用いられていても”それ”を”なに”だと認識できるのであるから。
そこから更に、既知と未知のちょうどよいバランスで出会った、初めての地点という平面的な世界――そこでのみ輝く、黒髪の光沢や、黒目の視線の、口紅の意味。
 
人間は知覚が何かを捉えた直後、その程度の大小が異なるもの、或いは対照をなすものを(思考のうえで)把握する。そして少し発達した段階では、それは言語的操作を伴う。
赤があるならば別の色もある。佐藤優樹がいるならば他の生物もいておかしくない。と、いう弁証法回路が、赤以外、佐藤優樹以外への排他に至った画面への、更なる反論の様な形で想起されてくる。今回取り上げたような、各種要素を言語的に移し替える過程の中で、似たものを取り出す作用――脳裏のうえに、見えざる「他の」もの、記憶のなかの、思弁的な「別の」佐藤優樹を幻視することになる。
 
言語的操作といっても、それは各人の語彙の多寡を一切問題にせず無限である。むしろ、自分にとって分かりやすい範囲に収めようとすればするほど、言葉に置き換えられない領域のほうが圧倒的に多く、墨汁の海に白墨を垂らすがごとく、我々は等しいダイナミスムによって自らの非力を痛感し、誰しもが自分で表現できうる(つまりは自らが知覚した最初の範囲)に、べそをかきながら立ち戻ってくるしかない。「~ではない」「~以外の」という領域はそれほどに無慈悲であり、鑑賞という行為は、対象化されたもの以外を世界の外に閉めだしてしまう。
さて、ここではこうした追究の始動因である佐藤のグラビア自体が比類なく鮮烈なため、引き起こされる思弁上の反応もまた大なること激しく、それでも最終的に帰ってくるのはこの「赤」にしかない。
 
誰しもがいつでもそうするように、まず我々は「よく知っている佐藤優樹」をこのうえに探そうとする。つまり生活態度、表情、似つかわしい衣装や髪型、過ごしていそうな日常(ここに至っては完全に各自に独立した想像の領域だが、そうしたファンタジーの部分を持たずにメディア≠表象を享受している人間もまたいない)等々。
こうした、数えきれない佐藤像は結局のところ無形なのであって、我々が日常のうえで捉えたと、確たるものとして把持していると思っているそれは記憶の出涸らしでしかない。ために、いつまでも我々に現前するそれへは追いつき得ないのであって、またそれは、現前によって攪乱/攪拌される。今回のように。
話がそれたが、そうした期待は誌面によって裏切られ、このグラビアが見せるのは「よく知っている”と思っていた”佐藤優樹」でしかなかったことを突き付ける。
それはまさに、各々の読者が見るたびに、何度でも突きつける宙づりの謎のようなものだが、この文章の当の目的は現象学にあるのではなく、あくまで表象としての、本企画に表れた意図の追求と称揚にあるから、話はまたも誌面に戻る。
 
攪拌してゆく無形の佐藤のイメージ、モチーフ、メタファーといったものは、我々のなかでいつまでも分割され、隔絶したままではいられずにいつか統一した一個のなにかとなりふたたび像を結ぶ。
それは間違いなく理性の弁証的作用に他ならないが、この企画は読者の独断を許さず、先んじてそれをやってのけてしまっている。
それが図版にして右ページ下段左、つまり見開きの中央下部に控えめに位置した、白薔薇のこぶりなブーケを捧げ持つ佐藤のカットだ。
 
全体として上述のように赤と佐藤との混淆という枠からはみ出さない、その戯れじみた大胆なコンセプトの見開きの紙面の中で、色彩のうえでも、奇妙に趣向を少し変えたものになっている。
 
造花のようにも見える。それがまた妙といえば妙なのだが、ひとまず「花」という言葉だけで充分に、この見開きを、企画をダイナミクスのある終局へと導く。
実際に、図版として見てもそれは、というよりむしろその一葉だけは変わり映えのない、正面向きの佐藤の顔のすぐ下にいまを我が世と首をあげて咲き誇る白い花が控えていて、正方形に近い画角といい、その中でモデルの身体がトリミングされていることもあって、中心に座すこの花束に否応なく視線が向かう。
 
そこでこの花には、”象徴性”という特権が与えられることになる。四枚の写真で構成される見開きのなかで最も小さいこの片隅に、一度だけ登場するこの佐藤「以外の」花という、その意味を問われることになるのである。
 
この記事はこれまでの前半部でおよそ対象を絵として、つまり画面、平面としての表象という扱い方をしてきた。モデルの佐藤優樹から立体感を削ぎ落として、図、はたまた地という言葉を使って画面即ち四方形に裁断された一個の枠こそ絶対的な領域であるとする立場をとった。
しかしこれを読む者はこのモデルが有機的な人間であり、有限な人格を持つこともふつう了解しているし、特殊な層にとっては彼女はまぎれもなく既知の佐藤優樹である。
そうした既知の視線を跳ね返すカウンターとしての、表象の力がここには宿っていた。というよりは、その力から派生する形で先のような、くだくだしい述懐が生まれたわけである。
ただ、ふつうの立場としてはやはり佐藤自身に優位性を与える読み方が多数だろう。これは佐藤が主役に据えられた企画なのだから。
それでも、それを否定するような力がここには働いている。それは半分は、やはり佐藤自身のモデルとしての力量、並びに意図があると思わざるを得ない共謀的な「作品」である。
そうした否定の力は即ち、佐藤という人物性の否定。そして事物化。物語性の拒否と共に、客体化(語られること)の拒否による、不思議に人称を持たない客体による語り……主体化というねじれの構造である。
 その否定を被った読者の反芻はより広い、名前のない世界に放りだされて収拾がつかなくなってゆくかに思われる。佐藤であったなにか、根拠の見出せない色彩の統一、ポーズ。それは限りない平面性を漂うばかり。もとより、問いを立てること自体がこうした遠近法のもとでは無用である。
 
しかし、その遠大かつ迂遠な思弁の旅路は、意外にもすぐ隣の、この白薔薇の図版に辿り着き、そして終わりを迎える。
即ち、ここでの「赤」と佐藤自身は非常に緊密な関係を結んだ表象として現れたために、よく見ようとする者は、見ようとすればするほどこの二者を切り離そうとして困難を感じるのである。それは既知の佐藤を取り戻す試みであるわけだが、この現前の力強さに霞んでしまった記憶のなかの佐藤は、これに似たものを取り出そうとしても甚だ頼りないに違いない。
そこで非常に単純化された「赤ではない」のような、先のような反論が主導権を持つ。数々のアンチテーゼは、今回のように基になる図版がシンプルで明瞭なだけ、シンプルに力を持つ。
それが凝縮されたモチーフが、「赤ではない」白、「地上の」生命力、「咲き誇る美」としての”花”だった。 
 
 つまり、概念としての白い花は今回の佐藤や、佐藤を据える世界の反証命題に他ならない。
(むろん、これが造花であった場合有機的身体を持ち、それでいながらマテリアルな様相の佐藤というモデルと非生命かつ、自然のイミテーションという対比を為す訳だがここまで来れば児戯じみた言葉/概念遊びに近い)
この花はそうした探索としての彷徨を迎えあげてくれる恰好の終着地点なのだ。美的な観念によって閉じられたこの紙面に於いて、考えうるあらゆる佐藤優樹の可能性が、現実に結実し、かたちを取ったものこそ、この白い花である。思弁のうえに咲いた花である
この花こそ、変幻自在に思うままの見た目を取る佐藤の姿の、ひとつのバリエーションだとすることはそんなに突飛ではないように思われる。
 
上の鑑賞の中ではさんざん事物化、客体として扱われてきた佐藤というモデルが、事物ではなく、生命という属性を花の仮象を得て初めて勝ち得る。咲き誇る花束はその儚い栄華に於いて美を、生命を謳歌することで捧げもたれ、人物モデルだった佐藤と実に小気味いい対応する。その象徴的な意義の、最新の帰結として、ゆいいつ事物化を免れているのである。ここに至って主体と客体の逆転が起こり、佐藤は最終的にモデルから、主役の座を奪還する。
 
 
 
単一の要素で構成される世界といえば何を思い起こされるだろうか。
原子の世界、結晶、宝石、アリストテレス四大元素。――これらは、そのものとしてあるだけでは何にもならない。人間が複雑な構造を持つ存在であるがゆえに、なにかを媒介することで始めてそれらの有用性を導き出す。それは道具、他者、他の生物等。
そうした限りなくマテリアルで、それゆえに無限を思わせる事物へのオマージュとしてあった本グラビアの大部分は、最後にこうした有機的なイメージを挿入することで、それらを包み込み、構成するバックグラウンドを為す世界を告知するばかりか、そうした、ひとつの有機的な世界に還元される。
このポリフォニックな構造はそれ自体である理(ことわり)を、論理の力を借りずに、表現の力で以て証明している。仏教の曼荼羅図がそうであるように。ここに於いてそれは、生命賛歌、裏側から見た自然でなくて何であろう。 
 
 
最後に、3ページ以降はこれまでの鑑賞に費やした世界と大きくコンセプトを変え、佐藤がありふれた住宅街やその中に含まれる商店街で笑顔を見せている、スナップ写真になるが、これは人体、肉体、組成構造(つまり現代人であり年齢であり性別であり)を持つ、イチ出演者としての佐藤のプロフィールを申し訳程度に裏付ける、最初の一枚の伏線回収、スタッフロールのようなものであろう。
ついでに、その最初の一枚のタイトル、キャプションのフォントは、文字の細さ、優美な曲線があしらわれ、アールデコの特徴を備えているが、ここにも、20世紀初頭、本邦にいち早くアールデコを取り入れた資生堂の影響が見られることを付記しておく。

「春の足跡 growin' up」譜久村聖 blt graph. vol.30 June 11, 2018

何よりもまずタイトル入りの顔面ドアップの1枚目、

の、次の写真。

見開きの2ページ目に置かれた2枚目。こちらも縦位置の1枚をまるまま1ページに使った贅沢なレイアウト。

遠目に立たせて全身を収めた立ち絵で、写真は周囲2㎝足らずを白フチが囲んでいて、簡易な額縁に入った絵画的な効果を見せる。

譜久村聖はゆったりした真紅のワンピース、腰が締まってるのがちょっと古代風。僅かに下からこちらを見上げてくる正面向きの顔を特徴づけるように、自然な、いや自然すぎる両手の力を抜いた棒立ち。

ゆたかな稜線を描いて落ち着く肩先と、登頂部を結ぶ二等辺三角形の美しいかたちが中心に据えられる。

そのシチュエーションは、しかし廃墟。

あらゆる期待を裏切って、被写体の若々しさに反して、あるいは、それら裏切られた効果よりも一層の鮮烈な表象に転じたという、どこまでも逆説的な場所としての廃墟だった。

講堂なのか小さめのホールなのか、練習室なのか、しかしさほど高くはない天井からして、病院の大部屋か。

奥行きのある室内で、自然に朽ちたような器物が散らかったままに並んだ窓から入ってくる光は浮いた埃に反射して奥に行くほど明るいような、ノスタルジックな色調を醸すが、ただ譜久村聖だけに絞られたピントは他の何物も明瞭な像を結ばずに散漫と、2重写しのようにぼけて重なっている。

この”風景”――不自然なほど精巧に作られた書割のような――と生身であり、生身以上に”生”を感じさせる艶めく若々しい被写体の、ドギツイ対比が素晴らしい。

頽落という言葉が似つかわしい、忘れられゆく、この場で時間を共有していたひとびとからさえも棄てられゆく一方のこの景色の中、存在を主張してやまない若々しい女性。

どこか非難がましい目でこっちを見つめる様は幼い子供のようだけれど、下ろした巻髪が垂れかかる白く無防備な肉付きに真っ赤な衣装よりも艶めかしい口元は年経たこの空間が乗り移ったかのように歳月の妙味が凝縮されている。

(この空間が、ひとの姿を取って記憶の中から現れ出たのかもしれない)

そのギャップがもたらす目眩、そして遠いところから微かに漂う馨しいノスタルジア

たぶんカメラマンは、彼女に少年の在りし日に抑圧された感情を代理させたのだ。彼女とは「役」なのであった。

記憶の中に封じ込めてなお、記憶を突き破って自我を貫き己を成り立たせる実存と禁欲の絡み合い。

続くスナップ写真は彼女に誘われるように戸外へとじょじょに降りてゆく。

室内のスナップから一転、

次のページは生地も爽やかな、高原風の白の衣裳に変われば、明るい外光のもとで無邪気に口を広げて笑いもする、またもやギャップ。

表情も明るい。

この二重性と、時系列的なレイアウトが暗示する、「解放」の表現もまた、肩透かし以上に、フロイト的な無意識の抑圧の表現として先の真っ赤な衣装があったんだと証拠立てているようだ。

過去は変えられない。過去は自我を精製する、何度でも。

そして過去はまた何度でもぼくたちの前に現れる。

季節のように。花のように。

【ファラオの墓ネタバレ考察】このジクを見よ

さぁ皆耳を傾けてくれ

少し言い訳をしたいんだ欝むいたままでも

眼をそらしたままでもいい聞いてくれ少しだけ……

 

 

 この場所は先週の土曜夜にモーニング娘。演劇女子部ファラオの墓を見てすこし経ち観劇中から腹の中に居座っていた尾形はるみずさんことジクというキャラクターへのあれやこれやが収まらなくなって半狂乱になってしまったので作りました。

 

 どうせ短くはならないので前置きはこれくらいで早速いきます。

 とりあえず書くのはそのこと、自分のなかにあるものぜんぶ出すつもりで、

 

「劇中のジク」について

「ジクとナイル」について

尾形春水さん」について

の三つの章立てを守る範囲でつらつらと、感想でもレコメンでもない文章で「ファラオの墓」そのものともちがう世界にばびゅんしたいと思います。

 

  • 劇中のジクのこと

 体裁としては二国間抗争ではあれ、それぞれの王とその愛した女というフレッシュかつどろどろに濃い感情にまみれたお熱い歴史大河の今作、我らがジクの出番はほぼない。

 敵国のバカ王子の右肩の行政官の部下、というポジションの相当な地味さは、↑のあからさまにポルノレベルな羞恥心に欠ける色事(いやそれだけじゃないが)から繰り広げられる派手な立ち回りが行ったり来たりするんであれば、観劇した直後は印象が薄いかもしれない。

 

 それは役どころの地味さだけではなくて、いやもちろん尾形はるみずさんのせいでもない、むしろ「はーちんが演じた」くらいの印象しか残らない恐れさえあるくらい、単に、ジクというキャラには感情移入させる性格らしきものがないからだ。

 

 野中美希さんなんかはグイグイに彼女が演じる王女に憑依して、脚本段階を塗り替えてしまうほど彼女色のナイルという人物の動作ひとつひとつに意味を与えた。大げさとも言えるその演技は、裏を返せばナイルのほうが野中美希に働きかけていたわけだ。(元)王女という設定、兄との離別、いっしゅんの甘美な恋、ハープ。どれも野中美希の想像力を刺激したに違いないドラマの宝庫。

 とはちがって「ジクにしかないもの、そこにいる意味」的なものはそもそも見出しづらい。

 

 ジクの見せ場、というか存在事由みたいなものはもうキャラクターのなかにない。断り忘れたがこのブログはがっつりネタバレをするんであって、でもういますぐするが、ジクはただ「スネフェル王の乱心を誘うためにナイルを死刑判決にする偽証のための人物」であればよかった。

 

 ちょっとくどい。要するにジクは王の失脚を狙うケスという宰相に利用されたんである。ケスはジクの「ナイルは悪いやつです。私見たんです」という証言を使って王を動揺させた。

 ナイルは悪いやつ、というのは王国の立場であるが、ナイル自身鷹という一味に心惹かれるやんごとない事情があり、また出自を偽っていた後ろ暗さもありジクの証言を認める。つまり当の王国の裁判の場で悪いやつとして名乗りを果たしたのはもうそれ、自身の故郷への誇りを敵の国にゆだねてしまいたい、受け入れてもらいたい欲望であって、愛するスネフェルのなかに流れるルールに順応してゆく仰向けのポーズであって、まあ泣かせるわねというか、しかしながらそれを受けて王は激昂、あんなに愛していたのに! 的なことだったと思う。もう勝手にやってくれ。

 

 というその後の流れを見てもわかるようにジク、完全置いてけぼりである。もういらない子なんである。見せ場だっつったのに。じっさいジクの登場は偽証で終わりである。マジかよ。

 というのは、もうほぼ言うことはないんだが、死すべきナイル(スネフェルに殺されるべき)という状況を作るためにケスは彼を選んだ、言ってみればもうケスにとって動かすのに都合がいいとかそういう立ち位置でさえなく、ストーリー進行上に配置された駒なんである。メタな話であれだが、丹生さんだか清水さんだかが作ったんである。

 

 ケスに「お前が田舎の家族のために宮廷から食料を盗んでいるのを知っている」と脅された? 知るかそんなもん。この「」はまあなんでもよかったんだと思う。家族を殺すぞとか、嘘の証言したらお金上げるよとか。金でさえなくてもいいだろう。

 この理由の部分によってジクはくそみそな非人道的人間にもなるし、結果としては家族のためにひとごろしの嘘をついた悲しき好青年になっちまったわけだが、どうあってもそこは演出上まったく幅を取らない。なぜならジクはそれきりでないし、それ以前にも大してでなかったから。その交換可能性はたぶん誰にも無意識に見て取れたろう。

 

 

 

 さて手始めにジクというキャラの大したことなさを書き連ねてしまったわけで、ここまででジクのことを思い出し読むのをやめてしまったひともいるかもしれない。

 だけれど、いま語ったことすべて「ジク」が無二の存在である構成要素たり得ている。

 この文章はもとからジクのことを語るつもりだった。ジクとは単に「人物」「キャラ」、そんな言葉に収まらないそれはそれはつおい「仕掛け」のことだったと。

 

 

 

 ジクはいったいどこからやってきたんだろう。砂漠のむこうから? イザイやバピのように流浪の民として力を蓄えながらウルジナを滅ぼしにきたのか? サリオキスのように奴隷もどきから義勇軍の首領へとなりあがったのか? ケスやメネプのように国の行政をつかさどるため生まれた高貴な人間だったのか?

 ちがう、彼はただ蜃気楼のむこうにいる家族のもとで生まれて、貴重な働き手として家族の経済や食事を担うためにやってきたのだ。(じっさいのエジプト王朝時代にそんなことができたかは知らない)

 政権抗争とか故郷の恨みとか砂漠の覇権とか、そんなものとは縁がない世界の人間だ。悪化してゆく政情、国勢のなかでもコソ泥で仕送りをつづけているとはまったく、したたか者とも言えるし、神経の図太いお調子者とも言える(じじつ上役に見抜かれていることに気づかなかったのだから)。きっと彼には友達もいたろうし同僚もジクのような気のいいやつだったろう。そんなことをなんとなく想像させる、いわば完全に「俗」なキャラ、エジプトの世界ではなくこっち側、見ているぼくたち側の人間だ。

(ほかのキャラクターはおよそ共感とか憧れとかをぶった切るほど極端化された特徴のある性格しかしていない。劇画の主人公たちというのはそういうものだし、簡略化された筋のうえからも盛り上がりを保つにはそうならざるを得ない。歴史的に言えば、緊張をとく暇もない戦乱の時代は、概してどの王侯貴族高官たちも神経衰弱による奇行に走りがちである)

 

 そんな彼が、まったく不運としか言えない状況の綾で舞台のうえに引きずり出されてしまった。(彼が偽証に登用されたのはナイルとサリオの密会の場に立ち合わせたからだが、なぜ彼がそこに現れたかというのも“演出上の”必然と言うしかない)

 これは誰もが息を飲むだろう。ここで舞台上の世界観が(凡庸さも含みうるという意味で)一気に広がった観さえある。次いで彼がケスとマリタという脅威に恫喝を受けているシーンが挿入され、もはやさらし者にまでされた状況で、王に、観客に、世界に向かって嘘をつく。尾形春水さんを詳しく取り上げるのちの章でこのシーンには帰ってくるが、これはすごい演出である。なんど繰り返しても足りない。

 それはともかく、このナイルの秘密を白日のもとにさらした証言によって砂漠の王たちのストーリーは先を急ぐかのごとくガラガラと崩壊をはじめる。

 

 だがひとまずは、「人間ジクにこの場面がどう働いたか?」というほうへ想像力を向かわせることで「ファラオの墓」という作品の中には存在しない非常におおきなカタルシスを見たいと思うのである。

 

 たぶん、彼を語るカギは「弱さ」なんだと思う。

 家族のために重ねてきた罪が裏目にでた、情の厚さという弱さ。それを利用されてしまう立場としての弱さ。もっとおおきな罪を引き受けてしまう人格としての弱さ。あらゆる状況が彼を扱いやすい鋳型にはめこんでゆく。彼は選択権や自由を奪われつづけてゆく。絶対的な弱さと言ってよい。

 そもそもにして砂漠の世界観にそぐわない情を持ち込んだ部分というか、家族がどうのというありがちな、どこかで聞いたことのあるような設定の部分からがもう彼の異質さ、都合の良さとしての異質さを形作っているんであるが、そんな設定だからこそ、見てる側としてやはり同情を注ぎ込みやすい、いやほぼ唯一の共感のよりどころしての受け皿と化している。

(このあたりは最後の章でひっくり返すので覚えておいていただきたい)

 凡庸な、それまで空の木枠でしかなかった人間が易々と悪の一味に転化するストーリーを説明するものもまた「弱さ」のほかにない。というかそのシーンに費やす手間を省けてしまう差支えのなさに、同一者のあらゆる共感が折り畳まれているのである。

 

 弱さは明瞭に目立つのだ。彼になにかを見出だした観客の同情とは、疑似的に自分の姿を重ね合わせる欲望のことであり、その欲望は彼をさらなる絶望に突き落とすまで留まることなく肥大化する。

 物語への執着が、興味が、彼を良心の使徒としての台座に据える。彼はそこでおおいに悩み、罪の重さと運命とのあいだに引き裂かれそうに苦しむ。

 自分の進退を、家族の存在を身代金に替えられて「他人の命」を選びきれるのかどうか? これは純粋に倫理的な命題としてジクの頭上に浮かび上がる。

 ジクのじっさいに即して考えてみれば、わが身が使える上司のもとに現れたいとけなき少女、そう憎からぬ思ったことだろうし、親密なやりとりさえうかがわせる舞台上の接触もあった。いざ証言人として裁判をまえに控えた際にこうした思い出が彼に浮かばなかったはずはなかろうし、そこでは少女の身の上を哀憐することと良心をチクチクと指す自責の念は同一であったであろう。

 しかしそれは彼の切なる思いのたけとして表白されない以上、あくまでこちらの想像力の仮想にすぎず、本質的なこの問いの重さはやはり「人間が選択すべき方途」として倫理的な、つまり普遍的なものとしてこちらを突き刺してくる点にかかっている。

 

 ひとはひとを殺してはいけないという規則がある以上、わが身とそれに先んじるものを犠牲に捧げなければいけない。あるいは、質量化できない情というものを切り売りして秤にかけることで、他人の犠牲を作ることに目をつぶる。ジクにしてけっきょく、ナイルを殺すことを選ばせた善悪の門であった。

 

 言ってみれば、こうまで定式化された問い。立法以前にまで高められた問いによってはじめてジクは一人物化され――そして同時に別な物語をも生む――すなわち「他人を売ったジクという物語」として、咀嚼されうる。

 わが身を守り、その場をしのぎえて終わり、ではないのである。そりゃ、血より優先さるべきものはない(おそらくリアル王朝時代には別世界の住人とされていた王侯、貴族階級を選ぶのがふつうかもしれないが)。だけれど、身内や知人を売ることよりも他人を売ることのほうが、見ず知らずの他人の命を想像することのほうが、重たく、引きずる続けるような気がする。

 

 無理矢理罪のための罪を負わされ、それっきり裁かれることもなく、表舞台にでることもないのであれば、生殺しに生き続けることになってしまうではないか。

 先述のように彼の出番はこれっきりなのである。重要な転換のシーンで、いちど脚光を浴びて、そのままなのである。アフターはなにも語られない! こうして「罪を負いつづけること」「永久に嘘つきのジク」は完成する!

 

 おそらく、物語の精彩的にも、誰かの一般的な懲罰観念的にも、本人の良心の呵責的にも、どっかで華々しく殺されることがいちばん幸せだった。物語とは終わることのみによって祝われる。

 それなのに、ジクはどこかへ行ってしまったまま、嘘つき物の背中をこちらに向けたまま、振り向くことはない。ジクはどこに行ってしまったんだろう? おそらく砂漠の蜃気楼の向こうに帰っていったのだ。彼はいまも、これからも、ずっとそこにいるのだが、よく見えない。

 

 だが、その門は依然として開いている。物語を終えたいまも、ぼくたちは絶望とともにその門のまえで跪くしかない。そこはジクの引き裂かれた良心から流出した血が水たまりを作っている。これこそが悲劇! ぼくたちの見たかった悲劇!

 

 

 

 ……としょうしょう荒ぶりがすぎたが、単純に、見えなくなることで「嘘つきとして、罪びととして」の姿がよりはっきりと偶像化されることはありうる。それは「家族のために食料を~」というお涙頂戴にもせよまあ頷ける動機によって、好青年という印象にすげかえられてしまった印象はあるものの、ほんらいの舞台のうえでは順序が逆である。ジクの性格設定はそれが好青年としてであれ最弱者としてであれ、偽証と分かちがたく結びついている。それが、彼が名誉を挽回する機会を持てなかったことで奇しくも補完されてしまい、またすでに物語が砂漠の王たちのものである以上、そんな些細なことは誰にも顧みられることはない。

 (水を差すようだが果たしてジクが良心の呵責を受け止めるだけのまともな人間かどうか? という注釈は必要だろう。言ってみればここまでの文章はほとんど、彼を擁護する側に立った仮説でしかなく、劇中に彼の依って立つ心情や独白がでてこない以上、この反証となるべき仮説もまた空虚である。そこは、演者尾形春水の解釈次第と言わねばなるまいし、この文の最後のためにそれは控えてある)

 

 

 最後にひとつ言っておけば、彼は無意識ながらこの世界の枠をぐんと広げてしまっていた。これはまったく無条件に功績と言ってよい。そして、平民としての自分の居場所を作るために彼はいつの間にか誰からも遠い場所にいた。

 

 さきほど、彼の家族だかいう設定はなんでもよかったと書いた手前おかしなものだが、この部分があってはじめて、彼だけが話の筋に回収されない「別な」背景を持ち得ているのである。

 それこそが家族、田舎の村という彼の帰る場所であるのだが、いったいにこの「ファラオの墓」という話には非現実的な、葉に置かれた朝露の玉のようなきらめきのような儚さがただよっており、そこが見どころであるなかで、ジクはそこからも仲間外れにされるかのごとく逆な(凡俗な、という意味ではあれ)リアリティを持ち得ている。

 

 (ついでに言えばこのおとぎ話のような手ごたえのなさは、古代エジプトという舞台に依るものではない。全体にエジプト感はなく、筋自体はむしろまったく宮廷恋愛と領土戦争じみていて、ヨーロッパの十字軍とイスラームのカリフと安土桃山の歴史大河と背景がどれでもよかったとさえ言えそうである。ただ、あえて言えばやたらとどいつもこいつもが好戦的で荒々しい、物騒なところなどは砂漠の風土から着想されたものか)

 

 ジクのおかげで今作は狂気のデッドヒートのような恋愛、血を血で洗う復讐、平和と戦争の不可分さ……だけではなく「情け」に加え「平民の住む世界」すら導入された。なんというか、空気が読めていないくらいのおっとり感が付け加わってしまった。だがそれはたぶん、救いであったのだ。

 

 ほかのキャラクターなど、もともとがそんな「ふつうの生活」とは無縁な人物ばかりであって、ジクにしてからがもう無垢なままでそこに帰ることはできないのかもしれない。だが、ファラオの墓という話のスケールは、はじめから全人的なテーマを持ってそれを通り過ぎたものはどの立場にあれ、誰でも世界観を捻じ曲げられる、というものではないのだ。王に生まれ女に生まれ、めぐりあったものたちの運命のめぐりあわせという単純素朴な核心であるはずなのに、みながみな進んで巻き込まれ、死んでいってしまった。

 それよりは、そんな世界のことなど素知らぬ風にして日々の生活を送り、自分のことだけ考えて、同じ町に住むひとのことを気遣って、という小市民たちの暮らしのほうがどれほど幸せだろうか。そこは「ファラオの墓」からも遠い、ぼくたちからも遠い世界なのだけど、ジクはそんな大切なことに気づくのにちょっとだけ手助けをしてくれたんである。

 

 

  • 「ジクとナイル」について

 ↑でいい具合に「劇中のジク」の話を締めくくったが、こっからまた殺伐とした話になる。そういう性格なんである。それにここからはじまるのは「ジクとナイル」の話である。ウヘヘ。

 

 ナイルというのはジクが殺した他ならぬ少女のことである。殺したというと物騒だし、正確に言えばそうなる手はずを整えてある法廷に手引きされてきたのがジクというだけで……うんやっぱり間接的にとはいえ殺してるんである。スネフェルとかいうのはただの短絡バカなので、スネフェルの凶行さえジクの偽証の射程にはじめから含まれている。すげーなジク。

 

 この章の眼目はストーリーとは離れた、「ファラオの墓」の世界から離れたところでジクとナイルをあえて取り上げてその関係性を検証する(でっちあげる)ことにあるので、もうすこしつぶさに見てゆく。まず「ファラオの墓」自体の構造からこの帰結にいたる力学を見つけなければならない。

 

 んであるが、言葉にしてしまえばほんとうに大したことなくただの筋書きになってしまうので困る。ナイルとは、ただ流れ着いたみなし子。ほんとうは亡国の王女だが、メネプに養われてハープなんか弾いている。ジクについてはもうほぼ飽きかけているが、途中までなんの背景も持たず説明もされない兵士A。宮廷ではなんかこう、絡んでるのか同じシーンにたまたまいるのかわからないほど些細でどうでもいいところがあった気がする。

 そうこうしてるうちにサリオキス率いる鷹とかいう劇場の本編前アニメで見れたような一味がウルジナに喧嘩を売るか売らないかということになり、ナイルちゃんは実兄のことなのでマジアンニュイである。そこへ登場したのがお互いの心情を深く理解できる(というか話が早い)相手スネフェル。ひと目で運命だなってわかった……これが恋なのね……とか言ってたらなんとお相手は俺様系で有名な王子様!? あたしこれからどうなっちゃうのーっ!? 次回予告! ナイル、死す!

 あのー、あれだ。ちょうど兄と逢ってたらジクが入ってきて、ジクは例の手刀(首の後ろ打つやつ)みたいなので(腹パンだったかもしれない)二秒で気を失うんだが、そのあたりの経緯を聞いたのかケスに買収され、刑場に引きずり出されたナイルを有罪にする、というのが↑でもういったところの話。小物感がやばい。

 

 ストーリー的に小物だとは前章で扱ったものの、こうして見てみるとナイルちゃんにしてさえもうほかのメンズから引かれる糸でがんじがらめにされていてジクのことなんて顧みる隙はまったくないんである。お前いたの? くらいのもんである。これは困った。

 

 だがここで始まらないとか言ってしまうのは非常に惜しく、構造からみてみればなるほどナイルの最期はちゃんとジクに引きずられるて生まれたものに見える。ジクもまたその後舞台から消えてしまうのを見ると、はじめから破滅の淵に立たされていた運命共同体というのがふさわしい気もする。

 だがこれも足りない。ロマンチックにすぎるのだ。そんなに甘いものじゃないんだはーちぇるは(しばらく独り相撲をお楽しみください)

 なぜというに、ナイルの側の無関心さまで勘定にいれてはじめて完成する、相補的で双方向的なものがここにあるからだ。

 

 いつまでももったいぶってはいれないので言ってしまうと、ここに「カインとアベル」の物語を見たのである。

 カインとアベル旧約聖書のかなりはじめのほうにでてくる、農作に携わる兄のカインと羊飼いの弟アベルの兄弟だ。詳しくはwikiでも見てほしいが、それぞれの収穫を神に捧げたところ神は弟のだけ選んだのでカインは怒ってアベルを殺してしまう。それがばれてカインは追放、いまの人類はみなこのカインの末裔だということになっている。これが人類初の殺人とされ、カインは誰にも殺されない呪いをかけられた。

 

 非常に暗示的な話で、よく兄弟感の嫉妬や葛藤という文脈で取り上げられたりする(心理学的に言えばカイン・コンプレックス。話はそれるが、個人的にこの「ファラオの墓」という物語の全体が、サリオとスネのカインとアベルなんじゃないかと読んでいて、まあ美しい話だなというのが感想である)が、ここではその読み方をとらない。

 

 まずポイントとして、カインとアベルは、事が起こるまでは分かちがたいひとつのものとして認識されるものだったんじゃないかと思う。

 “おなじもの”ではない。ふたりは別々の、まったくちがうことをしていた。だからこそひとつだったんである。作物も食肉もどちらも必要だったから役割を分けた。つまり互いに補い合うために、領分を犯さないことがふたりがふたりのままある意味でもある。

 そして、こうしている分には兄弟は無記名の、どこにでもいる存在としてのただの労働従事者だった。聖書中では彼らはアダムとイブの子だから、ほとんど最初の人類、世界にふたりだけの兄弟だったわけだが、そんなわけはないだろうということで、おそらく○○村にいる兄弟の身に、ちょっとした事件があったと説話化されたと。だからカインとアベルというのはただの2人セットの名前だったはずなのだ。

 

 ただそこにいたふたりが、「あの日狂いだしてしまったんだね」、運命を分かつ。彼らを区別したもの、それは神への理解だったのか? とするのは聖書読解の範疇だが、カインが我らの祖であるとされるのはこの物語のためだけではない。

 並々ならぬ数の、量の感情が彼の側に認められるからに決まっている。

 それはきたない・みにくい・暗い・おそろしい。それゆえにぼくたちはカインを作り上げる。そしていまもなお崇める。

 

 象徴的なのは、カインのしたことは最初の殺人であるばかりでなく行為としての悪、犯罪のはじめであったこと。そしてカインとアベルがふたり暮らしていたころには、そんなものはなかったことだ。カインは悪をもってアベルと、それまでの世界と決別し、世界を切り拓いていった。

 もっと言えば、それはカインのなかにはじめからあったもの。彼は神に作られた身体以外なにも借りずに、自発的に罪をなしたのだ。それは発見と言ってもよい。

 

 カインが始祖となったものはまだある。それが“嘘”だ。カインは神に「アベルはどこに行ったんだい?」と尋ねられた時、すでに弟を亡き者にした後だった彼は「知りません。自分は弟の番人ではありませんから」と答えてのける。これが神に対して、つまり人間がはじめてなした裏切りとしての、嘘だ。

 

 

 いわば、円満具足して完結したふたりだけの世界を終わらせたひと、それがカインであり彼はまた始めたひとでもある。こうして罪と罪以前、悪と悪以前はきれいに切り離されて対照をなす。いまもいるものと、いないもの。アベルのいたころには戻れないと知っているカイン以後のぼくたちによってアベルは殺される。

 ふたりは、物語の去り際までもが相補的で、完璧である。「誰にも殺されることができない」というカインの呪いはアベルにかけた罪の代償、つまり罰である。カインが生き続ける限り彼はアベルの重荷を負う。彼はひと時たりともアベルのことを忘れられないのだ。

 

 

 というふうに、長々とカインとアベルの話をしてしまっても、さあジクとナイルに重ねてみようというにはいささか難がある。それも当たり前というか、そもそもにしてここで取り上げるジクとナイルというのは、最後の章へのステップもかねて、はじめから尾形春水さんと野中美希さんのことであったのだ。すまんな。業が深くて。

 

 二度目だが、カイン・コンプレックス的な、つまり与えられた存在、善としての野中さんと与えられなかった尾形さんではない。最近はーちぇる(ほとんど枯れつつあるコンクリの河)を語る言説として、なんとか村おこしを図っているのか、野中さんに嫉妬と負い目をおう尾形さんのなんかそーいうリアルっぽいやりきれない感じのポーズが多いが、筆者はそれを取らない。安直だから。

 

 ただこういう言い方はする。舞台という光のステージにあがるまえ、闇から生まれた彼女たちは舞台から排除されて、ふたたび闇に還っていったのだと。ジクとナイルの「ファラオの墓」とは、どうしてもそうなってしまう。

 

 彼女たちは不可分であり、誰でもよかったのであり、それゆえに一体だった。創世記のことだろうか。それでもいい。だが生命の歴史ははじまり、種が生まれ、系統に分かれ、いざ幕が上がると王女と兵士。その世界の慣習に則って罪を引き受け、王女は死に、「自分は良心の番人ではない」とうそぶき、世界から呪われ、追放されるジク。

 彼らをわけたものは神の采配か? コンプレックスか? 愛なのか? なんでもよい。カインとアベルのように、ふたりは、闇の世界に還ってはじめてジクはジクに、ナイルはナイルになった。

 舞台上で人間喜劇を演じるあいだは、彼らは狂気に侵されたピエロだった。でも、いまや誰とも添い遂げずに明確なキャラクターとして完結し終えた、いまだからこそ、彼らは原初の姿に戻ったのだ。それぞれがそれぞれで働いていた、ひとりはひとりとして、でもふたりでひとつのころに。

 

 ただしもう会えない。もうあのころとはちがう。ジクはいまも十字を背負ったままで逃げつづけて、生き延びている。ナイルは死んでしまったものとして、舞台に生きるキャラクターたちの記憶として、あの場所に何度でも再生する。

 この、「いなくなってしまった」ふたりの見事な対比を示す演出にはこころからの賛嘆を惜しまない。

 かつて何度でも繰り返し用いられてきた劇のように、ナイルは左側に立ち、あの安っぽいユーレイとしてふたたび現れる。

 対してジクは、もういなくなった。正史のなかに語られることもない。しかしそのことによって、彼の性格は上書きされずに、むしろいっそう輪郭をくっきりとさせて浮かび上がる。

 

 だがやはりこれはジクが糸を引いた、というか望んだ物語だった。だからこそこうして、古い物語になぞらえることを通して「ジクとナイル」は完結する/しないことができる。そしてあらためて彼の物語をはじめるために、最後の章でジクと尾形春水さんを取り上げることで締めくくりたいと思う……。

 

 

 

 さあ、前章でまさかの主役級ナイルと対応させてみることで「なんかジクってすごいやつなんじゃ?」感を出せてたら素敵だなと思って。

 じじつそれが狙いなのだが、そうまで語るはずの存在じゃないと言っていたジクがここまでに大きくなったのは、やっぱり、ほんとうはそれだけの存在だったというか尾形春水さんが演じるジクを目撃してしまったからに他ならない。

 

 さんざんの予告通り、あの、偽証のシーンに立ち返る。

 言ってみれば「偽証のシーン」というのもおかしな話だ。物語中の証言者とは、それまで観客と当事者たちが当然共有してきた部分を繰り返し語る、もしくはまったく観客にとっては新しい、語られていなかった物語の部分をはじめて語ることで、そこを境に物語のそれまでとそれ以後を等しい秤にかける存在。彼が現れたことから物語は仕切りなおされる。それがまったくの嘘というのだから、ジクの重みはとてつもなく、また広きにわたる。

(その効果を弱めてしまったのが彼の人格という後付け設定である)

 

 よもや彼が真実を語ってケスに背くだとか想像したものはいなかったと思うが、だが、それまで「便利な枠」としてしか、ほぼ人格と呼べる人格を持たなかったキャラクターがとつぜん連れてこられる様に誰が無関心でいられるか。彼は彼でさえない状態だったからこそ利用され、その姿はまだ観客がよく知る「尾形春水」そのままだった。だからこそ誘った同情もあったろう。人型の枠はこちらに向かっていくらでも開いていた。

 

 自分の都合とひとの命を天秤にかけろという非現実的な舞台の世界。まさにドラマティック。しかも悲しい予感がただよっている。「彼は利用された駒なのだ……」。尾形春水に、いやジクにむかって、いままでのぶん一気に同情がなだれ込む。が……

 

 

 

 偽証のシーン、なんとまあ彼は舞台中央にひとり立ち尽くし、独唱をしてのけるのだった。

 

 いかに劇的な効果があったか、これはちょっと映像でもないと感じてもらえない。

 そこで歌われる歌は、罪を悔い運命を悔いながらも虚偽の淵に自ら身を投じたもののみの、アンビバレンツに肉を割かれそうな絶望の歌でなければいけないはずだった。

 しかしジクは身を固くして棒立ちになり、ただ前を見据えてなおも同じ言葉を繰り返す。「ナイルは鷹の一味だ」と。「自分は嘘を言っていない」と。

 

 それは痛ましさを超えていた。どんな繋辞も跳ね返す不思議な壁を作っていた。ひとつの異物とさえ呼べる、言葉にできない何かがまだそこに立っている。理解が追いつかない。

 

「見てもいないものを見たというこいつは何者だろう?」「嘘を言っていないという嘘をつくことがどうしてできるんだろう?」――嘘というのは言うなれば、レトリックの世界。いくらでも意味を生み出してゆく言葉の飾りつけによって、現実を超える現実を作ること。

 彼はそのとき嘘の世界の住人になってしまった。同情すべき俗の世界ではなくて。舞台という虚構の世界で嘘を嘘とつき通すことがどういう意味を持つのか、正直に言ってよくわからない。ただそれは滑稽ではない。フィクションとはそもそもが滑稽なものだが、二重になることで、真実は滑稽としても真実としてもこちらに帰ってくることができなくなる。舞台のさらに向こう側という、まだ語られないし語られずに幕は下りてしまう、けして見えないほうへ行ってしまう。

 

 そうした何回もの転回によって、すっかりジクはぼくたちの知っている(つもりだった)ジクに見えなくなってしまったのだ。彼はほんとうはそんな酷い人間だったのか? いや、酷いと決めつけることはできない。ただの挿入歌で――。しかしいったい、ほんとうとはなんだろう……というふうにして、あの、言ってみれば嘘の上塗り。ストーリー進行上重複とも呼べる謎の独唱のまわりを、ぼくは延々とうろつきつづけている。

 

 

 

 それは、おそらく偽証でさえなかったのだ。この、彼がひとりスポットライトを浴びて背景は闇に沈むという驚きの演出は、彼が語っているのは真実であると示す、彼だけの控えめかつ最小の世界を作っていたのだ。

 内容はまぎれもなく、彼のこさえた嘘に変わりない。問題は彼がそれを宣言すると選んだという、ポーズの意味での、歌だったのだろう。

 嘘をつくと自分で選んだ、引き受けたものの強い意思。その毅然とした態度。ひとりで世界に立ち向かうこと。それがあの劇的さの背景にあったのだ。だが、なんとまあ、そんな背徳的な? 矮小な? 自己表現って、あっていいのか?

 これこそ真にアンビバレンツだったのだ。良心の呵責に引き裂かれるとか、そんなのは一個人の問題でどうだっていい。ここでジクが、尾形春水さんがやってのけたことは善悪を無効化させてしまう、「彼岸」の描写だったのだ。

 

 対立するものを制するにはどうすればいいか。片方の勢いが増せば、もう片方はそれ以上になる。どちらかを根絶やしにしても、片方がある限りもう片方の概念までは消せない。

 対立するものがあるからにはそれを成立させる同一の土俵があるわけだ。黒と白なら「色」、衆議院参議院なら「国会」、善と悪ならそれは常識。この土俵ごとひっくり返してしまうに限る。ちょうどお母さんが飯抜きだよと言ってしまうように。

 この「超越的なもの」の力だ。それが舞台に降りて立つと、それまで舞台の世界がとらわれていた――舞台に入り込んでいたぼくたちの目もとらわれていた――常識や観念は相対化されてしまって、効果を失う。夢から醒めるとでも言おう。そのしゅんかんだけは、誰もそこが夢か現実か区別がつかないはずだから。

 そうした根本的なところで「ちがう」もの、それが「彼岸」であり、ここでのジクはストーリー展開的にも、倫理的にもキャラクター的にもひとつの境界かつ彼岸への「反転」をしてみせた。

 

 嘘が嘘以上の効果を上げていることはすでに述べたが、ここでそうした予想外の行動にでることが「俗」一辺倒の性格をひっくり返し「非俗」への転化つまり……なんだ?

 彼がまとっていた俗の上着というのは彼を取り巻く環境に、舞台空間にお仕着せられていたものだから、それを脱ぎ捨てるのは、彼自身の腹に口を開けている測り知れない底を見せつけることでありつつ、同時にまたこの舞台の、正義だとか愛だとか強さみたいなものをまるっきり無効化してしまった。

 

 じじつとして、このシーンが火蓋となって以後の展開がぐんと血生臭く、殺伐として、また悲劇の装いを被ったのだった。まるでジクは仕掛け人のようだ。ハンカチーフを翻して不敵に手品を行う、幕間のピエロのようでもある。

 そして彼がひっくり返したのは展開だけでなく、観客の善悪の観念でもあった。舞台は、なんとかそれを無視してそれまでの筋をつづけることで平衡感覚を保ったが、ジクが立っていた場所にはぽっかりと奈落が空いたままになっている。すなわち最初の章でくどくどしく述べた倫理的な問いとも言えるし、それをそこに掘ったのはジクに他ならなかった、という彼の哄笑が聞こえてきそうな、われわれの絶望でもある。

 

 すべてが彼の手のうえにあるようなトリックスターである、と言いたげな書き方になってしまったが、彼は結果としてそうなった、舞台や脚本の構造としての話をしてるんであってジクの性格については言及していないことを注意してもらいたい。むしろ、ここでの彼はまったくの“無”。舞台上のほかの要素と並列に語れるような言葉をはねのけてしまうまったくの異質な存在なのである。

 

 正直なところ、ジクというのはただのヴェールであって、本質的にはなにもわからない、というしかない。

  その”無”というのは何もないゼロではなくて、どこまでの広がってゆく、分割できない暗闇のことだ。

 この舞台が「太陽の神殿編」と「砂漠の月編」に分かたれて、それぞれに主役が据えられているというのなら、ジクは「闇夜の砂漠」を制する主役である。

 エジプトの砂漠とはきっと広いのだろう。厳しい環境に耐えながらも暮らしを、命を紡いでゆくあらゆる生き物を隠して、砂丘のむこうまでつづく。それは紀元前6000年から変わることのない姿で、そこでは繰り広げられてきた生命の闘争もまた太古と現代とでなんのちがいもなかったはず。この砂の国で、平民としてのジクはそんな歴史と現代を繋げる橋渡しをも担う。

 だが、平民であればこそ、それがやはり人間という生き物のありふれた姿であればあるほど彼の正体はわからなくなる。人間には一体なにが出来てどんな姿を取るのか? それは握りしめれば指のすきまで崩れ、零れ落ちてゆく砂のごとく頼りない、なのにそこにいくらでもあって、ぼくたちの足元を埋めている存在だ。

 この隙間を掘れば掘るほど、微小な世界は宇宙ほども大きくなり、ぼくらの外側を埋めてゆき、見上げればそこには、星さえも見えないただ広がりつづける夜空がある。なにが出てくるのかわからない、寒気のするような砂漠のなかで、ぼくたちはひとりで迷子なのだ。

 この人間砂漠を司り、「ファラオの墓」の外側を包囲している彼の名は人間「ジク」。

 

(このへんの考察は、“すべて”ぼくだけの記憶のなかの舞台に見る尾形春水さんの印象に依っている。

 というのは、この彼女ひとりで立つシーン、微笑とはいえないまでも、得々として彼女なりの自信や確信に満ちた、充足感のあるいい表情をしていたように思うからだ。

 むろんこのシーンでそんな意味深な演技をするのは、そういう指導でもない限りグループで作り上げているこの舞台の出来に背いてしまうかもしれないので、よっぽど見間違いか、記憶の捏造かと思っている。じじつ他の公演を見たかたに、特に尾形さんに注目した意見をいただいたりもしたがやはり申し訳なさそうな顔、演技が見られたそうだ。

 ただ、じじつはじじつとして、むしろジクの可能性や尾形春水さんのあり得るかもしれない真意の深さ、みたいなものを検証する、あとは単純に、空想みたいなものを残しておくのも悪くはない。特にジクにスポットをあてる意見は、これからもまあゼロと言ってよいようなものになるだろう……くらいのつもりで書いています)

(ちなみに、このシーンから下がる時、尾形春水さんが明らかにニコッとした、という意見もいただいた)

 

 ところで、当記事の冒頭に掲げた三行の文章は、ムックの「茫然自失」という曲の歌いだしを引用させていただいた。ミヤさんありがとう。

 初期のムックは暗い曲ばかりで好き嫌いが分かれるだろうから、特に聞いてほしいと言うんじゃない。ただ、この詞は全編がこの文章の、特にいまのあたりにすごく近しいなあと思うので、ほんとうは丸まま載っけたいが、特にという部分↓

 

あぁ…唄が歌えなくなり初めて知った自我の愚か

あぁ…何も歌えなくなり初めて知った罪の重き

 

 

 この秀逸なところは、「唄が歌えなくなり」という絶望の表白をしつつも、「いや、歌ってるやん」という、「唄が歌えないという歌を歌っている」矛盾のおかしみがあるところ。

 いや、こんな冷たいツッコミで済まさずに良心的に解釈するには、ロジカルにたどっていくしかない。つまり、「それまでの」“唄”はもういまの自分には歌えないと気づいた。なにか明らかに違ってしまった、という状況なのだ。で、どうするとなって、まあ腕をなくしたギタリストは足で弾いたりしてるなあ……なんて感じで、別なスタイルではじめてみた、それがこんな歌ということだろう。

 「自我の愚か」と言ってしまっている時点で、自分を俯瞰的に見ている自分がいるわけだ。そんなのはほんとうの絶望とは言えない。言葉通りならば、茫然自失というのはもうなにも手につかないほど自我を失っているということだ。

 そうではなくて、これは決別の歌なのだ。詞の表現で言えば「混沌のなかの現実」に気づいた曲であり、この曲の明るいとは言えないまでも吹っ切ったような解放感、力強さはそんなとこにある。

 

 モチのロンで、我らがジクのことを言っている。

 嘘をついている最中の自分、それか自己主張しているときの自分というのは、新たな自分の誕生である。なにも歌えなくなり始めて歌えるうた、嘘をつくことではじめて見つけた自分のなかの自分というものを扱っているわけだから。

 

 そういう意味で、ジクのほんとうの性格みたいなものは決定できないんである。それが「彼岸」に立っているという意味で、良いも悪いもないし、どっちに転ぶようなものではない。ただのニュートラルな、純粋無垢な個性という意味での誕生で、何度も言うが、彼の人格というものを示す材料が舞台のうえにない。

 

 たぶんまあ演劇というのはこういうところがいいんである。常にニュートラルな、解釈の固定化を拒否する新鮮なものが生まれる。ぼくたちは、観客は、いつもいつも自分がその誕生に立ち会ったときの感動を忘れられない。それこそが真の世界、リアルというものであって、無理にこねくり回してわかりやすいエンターテインメントにしてしまってはいけないんである。

 

 というのは、だいたいが演出・効果によるジクの象徴的な役回りの話としてしてきたが、以下はこういう話を踏まえてのジクのそれから、あらためて「劇中のジク」という一人格を深めて考察し、またジクとぼくたちのそれからという話をする。完全におまけである

 フィクションとの関わりかたなんてそんなもんである。おのおのがまったく見当違いなほうへ深めてゆくが、見ているものはただの映像。眼球と冗談くっちゃべってなってなもんで。

 

 話はなんどでも彼の謎の表白に戻るが、それに伴う彼の真意について。またここで主観をいれるが、ひとりで歌う前、舞台に召喚されるときの彼の演技にしてからがまずキッパリしていたんである。声とか張ってたし。そう思うだけだけど。

 

 おそらく、この時の彼は、選択肢を与えられる蜜の甘さを知ってしまったのだ。嘘をつくこと自体への陶酔的な感情があった、とする説がまずひとつ。彼が最後に立ったふたつの岐路は、家族か? 正しい人間であることか? ではもはやなかった。

「家族のために」言うことを聞くか? 「考えることを放棄して」言うことを聞くか?

だ。

 目の前に口を開けているあきらかな悪の道。ふつうの人間であれば、考えるだに恐ろしい。なにが待ち受けているかわかったものじゃない。しかしそれはものすごい勢いで自身に迫ってくるのだ。前方には圧倒的な権力者。後方にはそれに仕える女アサシン。これ以上空転する思考と時間を費やすのより、ポッキリと折れてしまったほうが楽に決まっている。 

 そして、ただ従順に言われたことをやればよいとわかったときの完全な自由! 解放感! 彼はそのとき、真の充実感を感じる。自分で選んだ道で、彼は思ったままのことをしているから。もちろんそれは、まとわりつく操り糸を見て見ぬふりをしている人形の思考。

 俗か非俗かと言えば、ギリギリ俗だろう。ただこの解釈としてもやはり危うい。世界観から完全にはみだしている、心理的な近代小説というむきがある。

 

 また、もっと俗な見方が「悪の道に目覚めた」という解釈。これなどもうこれ以上明らかにするほどのものでもないが、まあなんか元から不良少年みたいなことしてたし、考えられなくもない。ケスの側につけてむしろ嬉しかったんじゃないの、というつまりは自己実現の慢心であり、単なるうぬぼれである。

 

 それか、狂的な錯乱状態の表現とするほうがまだマシかもしれない。自分のしていることがわかっておらず、うつろな表情でただ歌を繰り返す、というのはある程度鑑賞の価値があるように思う。

 ここで二流カプ厨創作勢のような言葉を借りれば、憎からぬどころか密かにあこがれと親しみを覚えていたジクだったがメネプへの恩情もあって自分なんかは……と思いを燻ぶらせている日々に戦争が起こりそうなふいんき、ナイルの危機にあっさりやられてしまった自分の不甲斐なさを噛みしめているとケス大臣に恐ろしい話を持ち掛けられる。そのなかで、なんとナイルは鷹の兄妹であるばかりでなくスネフェルと密かに通じていたと聞かされる。ナイルの住む世界が一気に砂丘の果てまでも遠くなってしまったように感じるジク。どうせ手の届かない存在ならば、自分は……と、ナイルを誰にも渡さぬ方法を思いつき、彼は内心ほくそえみながらも、震える足で刑場へ向かう、みたいな話ができる。胸から血を流すナイルを見て満足しきったジクの顔も浮かぶではないか。

 そしてその後目が覚めて自分の行いに気づいてけっきょく反省するんだか自分も後を追うんだかみたいな話になるんである。知らんけど。

 

 まとめしいものを付け加えてみると、おそらくジクを演じたのが他のメンバーだったら、それなりに完成した、解釈や鑑賞的態度などそれほど働かせる必要もなくすとんと腑に落ちるジク像を提示してくれたんじゃないかという気もするのだ。(しつこいようだが、脚本段階でそれは限界がある。なんとかしろ)

 それが、尾形春水さんの体を、こころを借りたことによってこんなにも揺れ動きを見せることになった。それは尾形春水さんの本心が揺れているからだ、ということはできないにもせよ、やはり掴みかねているところや、迷いがありながらひとつひとつの動作をこなしていったのだろう。毅然としてこの役をやるには、まず人格的にかなり落ち着いているか、冷静に割り切れることができなければ難しいように思う。

 だが、ただの枠でしかなかった人間が、いざ舞台のうえで演じられるとこんなにも揺れてみせて、ひとのこころに作用する。ナイルというキャラになりきった野中さんとはまったくの、資質そのもののちがいである。これはこれですばらしいことだし、非常に楽しんだ。

 もしジクという人格が尾形春水さんにとって新しい扉を開くことに、じじつなっていたならば。それは大変結構なことだ。それが暗黒大魔王でもなんでも歓迎したい。これがいい舞台で、いい役だったことに、乾杯。