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ぶんがくあいどるろっくんろーる

「MONTHLY ハロ通」佐藤優樹 ファミ通 2018 6/21号

表象の世界に引用される人物は例外なく、もとの人物の個性……来歴や人間性(? 曖昧な言葉だ。)、アイデンティティーと切り離され、あくまでその表象に表れた限りで語られなければならない。そこに選ばれる過程とは無縁であり、かろうじて理由のみが――当初のコンセプト通り、生産計画の一要素としての成功を収めた場合に――最終的な表象のごく一部へと還元されている。つまり、そのプロジェクトの一要素に還元されるために、その人物性はイチから再創作されるのである。それは参画した当人の企図、制作に携わった人物の企図を裏切ることさえある。

しかし、或いは、その「語らなければならない」という鑑賞者の義務感さえこのプロジェクトはあらかじめ含んでおり……かかる語りはすべて、ただこの「表象」へと向かうよう否応なしに、仕組まれている。こういった語りそのものが、一つの表象を支える。その再創造された人物を更に補強するための物語的な面をなす。
 
 
 
こうした前置きをするのは、この誌面グラビアがある意味では佐藤優樹への挑戦、でなければ佐藤優樹を期待した読者への挑戦とも受け取れるほど思い切ったコンセプトでもって企図されているからだ。
 
 
それは、ポートレイトというよりは能く計算して取り組んだ作品に近い。
 
むろんどういった形であれ、商業写真は構想をもとに構成とロケーションと衣装合わせといった、当初の企図の上に更なる段階を見込んだ「作品」ではあれ、それは当初の構想をより明確にする表現効果や、人物と背景、主題と副題の緊張関係を抜きにしてはおよそ成立しないものではある。
一方でしかし、今回ここに見出されるその企図は、一つの、純粋に一つの構成――そしてそれは物語的感性や疑似的体験からくるある情調を喚起するものでは”ない”――美的に表象されるべく配慮した統一的感性のみが己を構成し、またされている。その統一的感性に凝集するべくして、雑多な情調を喚起させる諸要素/段階はほとんど放擲され、およそナマのコンセプトそのものという感に近い。
 
それは、オーケストレーションに近い。そしてそこでは、佐藤優樹は演奏者でありながら、ひとつの音符である。
 
 
 
実物の鑑賞に移る。
ここで既に取り上げられ、またこれ以後にもほとんどの鑑賞を費やすことになるのは、全5ページに渡る誌面の、最初の2ページに絞ることになるが。
 
 
左ページの一面を覆うのは縦向きの誌面にちょうどよく収まるポーズの佐藤のバストアップ。
片腕を真上へ持ち上げ、肘を折り返すことで頭部を後ろから包み込むように支えている。もう片方の左手も下から上へと指し示す様に唇へ触れており、画面という形式に於ける縦のイメージを強調している。衣装をまとわずあらわになった肩から腕、そして顔面の肌色、瞳が媒介する長い髪の黒色が、誌面を細長く裁断する。
 
特に、たった今つまびらかにした上下へと行き違い、関節から先でまた出会うことになる両手の効果は素晴らしい。ここで画面を縦に行き来する視線が集合されるのが、こちらをひたと見据える佐藤優樹の顔になるという視線の誘導も実に効果的であるし、その不可思議なポーズを気にさせない、腕がほぼ一直線を以て画面を区画する安定した構図。安定したと言ってもそれは無機質に生産されたインダストリアルデザインのような、という意味での、人工美的な構図である。
彼女の黒髪は顔の両側を覆うようにまっすぐに垂らされ、この緊密な構図をより一層引き締める役を買っている。
 
だが、その無機的に、直線を強調するかのようにスあえてトイックなまでに統一的に示された構図が抑え込む被写体の肉感性が、かえって本来以上の有機性に輝きはじめ、見る者の禁欲を呼び覚ますことはありうる。
この直線は右腕を真上へ持ち上げるために力を抜いた左肩、そこを始点に描かれる二の腕の優美なふくらみ、他方、画面の奥のほうで控えめに窺えるばかりの、上昇のち下降の屈折を司る肘関節と、上腕のねじれ――上端は紙面の裁ち落としに巻き込まれて僅かばかりしか残らずに、大部分は正面向きの頭部の後ろに控えるばかり。腕かどうかさえ定かでないそのかたちの、それでも日頃は隠されている裏側の部分が陰を帯びて、青白く見えるのは非常に扇情的である――、斜め向きの腰からじょじょに半身を持ち上げつつ、最後に顔は完全な真正面を向くといった、捻じ曲がった上半身によって成立しているのであって、古典にも通う、構築性を果たしているのはただ人体のみによる。
左右の背景を置き去りにした、まるで迫ってくるような表現。とても肉感的な「人体」という点でマニエリスムに適った、アングルのオダリスクを想起させる。
 
初手からこうした挑発的な一枚絵を浴びせられた読者の心象は、ただならないものがある。が、それもただに人体の表象のみに還元されうる、即物的な価値しかない写真だったわけではない。
その衝撃は、誰にも明らかなように、融通無碍な「色」の支配に端を諸する。
 
さて、この見開きの2ページ目、右の誌面上部に大きく配されたほぼ等しい比率の、しかし横位置の一枚――こちらは横たわる佐藤の上半身が、左上へ頭を向けて置かれている、またも画面と構図の関係を活かした一枚――。その下部に2枚の、どちらもバストアップの横位置が並べて置かれている。
以上の計4枚のスナップはどれも同じ背景、同じ衣裳のもとに撮られた、つまり一連のコンセプトと見てよい。
 
その背景も、ぴったりと貼りつくドレスのような衣装も、そして2枚に現れるスカーフ(の様な薄い布……およそスカーフ的な用途とはほど遠い、闘牛を目眩ませるマントの様だ)の小道具も、どれもが赤の単色に揃えられている。
これが、何よりも増してこのグラビアが人目を惹きつけた第一の要因である。
 
その色は、ルージュやカーマインというような、それよりは少しくすんでいるのか、一言で言い表せずにもどかしい、単色である。
一面に広がり、どこまでも果てることがない赤の世界。そんな風景を連想する。
そして上述の最初の一枚などは、佐藤の上半身がこの色面を縦に寸断するがゆえに、この世界に溶け込む者、その中から生まれた同類でありながら、異物、そんな心象を喚び起こす。
 
赤の象徴的な意味、その言葉に付与される特権や、来歴が背負う習慣的な意味作用と言ったものが、ここでは拒絶される。そうした作用は他の色と共にあって、つまり他の背景や他の小道具の中で赤が発色し、自己を主張するとき初めて意味を持ってくるのであって、赤の単色は赤の単色を以て世界を駆逐するばかりである。
もっと言えば、他の色のない世界、他の登場人物、小道具と言ったものを寄せ付けずにこれら赤をまとう佐藤優樹だけで成立する、その秩序が独自に法則を運用している、絶対的、個別的に自律した「空間」をも想起させる。ここでは現実の様な有機的な身体、自然の法則や輸送、交通で結ばれ合う世界といったものから隔絶したものが表現されている。
 
 
こうした単色で、起伏もなく平面的な背景は現代に生きる者なればみながみな、一度は目にしていることと思う。ありきたりと言えばありきたりだが、その鮮烈さの種を誰もが記憶の底に埋めている、色褪せないデザインとして。
 
それはおそらく広告デザインの世界で目にされている。
 
初出や発展の過程をここで正確に叙すことはできないが、おそらく現代の我々に影響を与える範囲で時代の隔たった遠さにある、資生堂が展開する一連の化粧品広告を取り上げる。
 
 
今回のグラビアを見た者が、ここに見る赤の色味、平面的な背景から、こうした広告の表現をどちらが先ともなく想起するのは自然なことと思う。殊に、今回の佐藤もまた背景と近似色の口紅を用いているために、その印象はより深い。
むろん時系列的に、資生堂のそれが先行することで今回のものが影響下にあり、これ以外でも近年のTSUBAKIの広告も同じ路線にあると言ってよいだろう。
そのうえで更に、お互いがお互いを呼び合っている。
それはどちらも、この同じデザイン感覚の中に溶け込み、そこからいつでも新鮮なものとして浮かび上がるような近似、近接した表現なのだ。
 
 
この化粧品広告との関連で言えば、こうしたデザインはフランス人写真家Serge Lutensの企図による東洋趣味の採用という思想に革新があった。

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人体の一部と、ピンポイントに取り入れられた差し色の統一感。そしてそれを裏切るかのように画面に広く取り入れられた鮮明な黒色。或いは黒色こそが部分と部分を媒介する原子ででもあるかのように、この3要素が親しく混ざりあう。
 
彼が資生堂とコラボレートした図版を、アトランダムに5点掲げたが、今回のグラビアに参照するにあたって引用した意図は伝わるかと思う。
 
彼の仕事の特徴と言えるのは、「平面としての」デザイン性に優れた大胆な構図、それでいてコラージュ的ではなく、洗練されたシンプルな視点を持つことだろうか。
 
そう言った独自の表現の中には、「自分が日本人ではないかと思っていた」と語る彼の、「日本」へのアプローチ――それは概念としての他国、民族性といったあいまいなポーズなどよりもっと明確な、「日本画」への思慕とも言うべき志向性が見て取られる。
 
それは形式としての日本画であって、つまり中国の山水画に由来を持つのだが、水墨画や肖像、季節画、風俗画、静物画など、掛け軸や屏風絵全般に表れた特徴として見てゆくことではっきりする。
(浮世絵、錦絵は含まないだろうが)
 
 
 
陰影を欠くことと引き換えに、強弱を持った輪郭で瞭然と対象を分かつ線の芸術。そして図と地の混淆。消失点も水平線も持たずに、遠くにあるものは霞たなびく雲の向こうや、消えた輪郭線の果てに宙に浮いている。近くのものは、手前に書かれている。
ここでは現実的な、もとい、近代科学的に基づいた「視覚」ではなく、あくまで画家の視線の赴くままに距離感は歪められ、書きたいものが、書かれたように存在している。
 
これは、西洋画が長年の課題とした遠近法による正確な大きさ、距離感の把握。並びに本邦でも江戸時代に並行して追求していた写実、そして色面の芸術とは根本的に思想を違える。西洋のそれが科学的、合理的な段階を積み重ねた近代哲学の歴史の賜物であるとすれば、東洋のこうした技法は非常に即物的な精神のなす芸術である。
 
 
やはりセルジュ・ルタンスにも、モデルと背景の統一感を目指して揃えられた色彩による図と地の混淆――図=主題でありながら同時に背景をも為している色彩の共謀――は見られる。
別のパターンを見ても、強烈なコントラストを以て背景からモデルをくっきりを浮き上がらせているが、そこでの非現実的なデフォルメ作用、お互いがお互いを引き立て合うような、緊密という程度を超えて共謀的とも呼べる作用は容易に認められる。そこには、大胆なデフォルメ、クローズアップ、カット・アンド・ペースト、トリミングから成立しており、琳派の精神を引き継ぐかたちを見いだせる。
 
西洋絵画風の鑑賞眼からすると、まず主題……テーマ、モチ―フ、最も劇的なものは、それを構成する緊密な世界像の中心に見えてくる。一点透視のこちら側と向こう側、天と地。こうした階層構造は、むろん神学や信仰が思想的基盤を為して発明された一個の装置である。
しかし、こうした目でこれらのデザインの世界に分け入れば、まず地平線はどこにもなく、別様の宇宙のごとき奥行きの無い単調な色面の広がりを目にする。求めるべき地の消失から突如、現れてくる図。奇形の、それ単体で自立する美的感覚からなる図が、新たな構造が組み上げられてゆく。
彼を見ながら、彼の存在はあの無関心な背景とのみ親しい繋がりを持つことが明らかになり、再び地が前面化してくる……しかしそこで再発見される地は、もはや図と等質な存在となっており……我々の視線は、この円環の中を永遠にさまよい、求めていたものがなんだったのかは、ついに分からなくなる……。
 
 
 
簡潔にしてまとめれば、一個の統一的感性によって企てられた表象にとって、モデルは”非”人称化されるということに尽きる。
 
佐藤優樹はここで”非”佐藤優樹と化し、被写体としての、もはやそれ以下の(むろん、役割としてはそれ以上の)事物化を果たす。
彼女が佐藤優樹であるのは、この画面の主にこちら側での印象操作による、背景からの切り離しが行われるその時である。しかしそうあってしまうとそれは、もはや誰でもよかったのだ。
 
否、そうではない。
「この」佐藤優樹はこの赤い世界に置かれたその時にしか生きていられなかったのだ。
佐藤優樹」であれば見えなかった、黒髪の輝きや、肩と東部のバランス、肌の地色と言ったものが”非”佐藤優樹化して初めて全体に還元される。或いは、こちらの世界、既知の佐藤優樹と接続して我々が見出すことになる佐藤優樹性(人格、及びそれを基に我々によって統御される身体性)を今回のコンセプトが断ち切ってしまうことで表象としての佐藤優樹の生命が生まれ、その中で生きることが可能になる。
 
その証拠に、見よ。横たわり髪を広げさせこちらを見上げる2枚目の図版では、こうした構図によく見られる誘惑や扇情的なムードは極めて慎重に、かつ徹底的に排他されている。それと言うのも衣装と共にスカーフの”赤”、今回の”赤”がこちらの常識にとらわれている視線を跳ね返すからである。
こちらの視線と、表現する/される者の企図との融和した場。その奇妙な二律背反、矛盾による、矛盾のない合致こそがここに佐藤が表象としてある積極的かつ本来的な意義、そして、そもそもからしてモデルに起用された理由だったのではないか。
その色彩のなかには既知のものはひとつとしてなく、また探ってゆけるような深みは更にない。ただただ世界を構成するマテリアルとしての赤色を彼女の身体と顔は纏っている。
そしてこの色と絡み合うのが、感情の読み取れない彼女の「視線」だ。
一種挑発的・挑戦的でもあるその視線は、図版4枚に共通してこちらをひたと見据えて、肖像としての今回のグラビアの、顔にもましてひとつの「顔」になっている。
 
 
 
こうした、予め設えられた環境のもとで初めてクローズアップされる人間の可塑性、融通無下に新しい生命体に変貌し、その中で生きられる生命力。その再発見。そうしたものがグラビアを鑑賞するひとつの醍醐味である。その文脈で言えば今回は、まさしく統一的な美的感性であろう。
 
 
――さて、ここまでが今回の企画を語るための素地。理論としての大前提であり、構成を概括してみたに過ぎない。
言わばバックボーンであり、ここからいよいよより深い読解に至るべきだが、基になる図版も少ないことではあるし手短にポイントをつまむだけに留める。
 
 
これまで”赤”がこの表象世界を為す基盤であり法則であると大胆にも定義してきたが、ここでは先立って整えておいたように佐藤が辛うじて人体を保っていることが鍵と……つまり人並みの肌色、黒髪というものをそのまま移流させているばかりに……なり、当然、既知の視線は、この世界がまったくの別天地ではないことを了解している。表象の世界と鑑賞の対象はあくまで別である。
(”まるでどこかの世界のようだ”という認識は、暗々裏のうちにその対象が”これはまさに我々の世界の中で生み出されたものだ”という事実を了解している思考があって初めて成立する)
それは佐藤が、上述のようにどれだけ役割として小さくなろうと、或いは寸断されようと、事物化されていようと、赤を纏い赤から生まれていようが……結局はどこまでいっても佐藤でしかない、予め佐藤優樹を知る我々にとって、我々の”既”佐藤優樹像はこれ以上分割されえないものだという事実と同じである。
逆説的だが、ゆえに、表象のうえでは、どんなふうに用いられていても”それ”を”なに”だと認識できるのであるから。
そこから更に、既知と未知のちょうどよいバランスで出会った、初めての地点という平面的な世界――そこでのみ輝く、黒髪の光沢や、黒目の視線の、口紅の意味。
 
人間は知覚が何かを捉えた直後、その程度の大小が異なるもの、或いは対照をなすものを(思考のうえで)把握する。そして少し発達した段階では、それは言語的操作を伴う。
赤があるならば別の色もある。佐藤優樹がいるならば他の生物もいておかしくない。と、いう弁証法回路が、赤以外、佐藤優樹以外への排他に至った画面への、更なる反論の様な形で想起されてくる。今回取り上げたような、各種要素を言語的に移し替える過程の中で、似たものを取り出す作用――脳裏のうえに、見えざる「他の」もの、記憶のなかの、思弁的な「別の」佐藤優樹を幻視することになる。
 
言語的操作といっても、それは各人の語彙の多寡を一切問題にせず無限である。むしろ、自分にとって分かりやすい範囲に収めようとすればするほど、言葉に置き換えられない領域のほうが圧倒的に多く、墨汁の海に白墨を垂らすがごとく、我々は等しいダイナミスムによって自らの非力を痛感し、誰しもが自分で表現できうる(つまりは自らが知覚した最初の範囲)に、べそをかきながら立ち戻ってくるしかない。「~ではない」「~以外の」という領域はそれほどに無慈悲であり、鑑賞という行為は、対象化されたもの以外を世界の外に閉めだしてしまう。
さて、ここではこうした追究の始動因である佐藤のグラビア自体が比類なく鮮烈なため、引き起こされる思弁上の反応もまた大なること激しく、それでも最終的に帰ってくるのはこの「赤」にしかない。
 
誰しもがいつでもそうするように、まず我々は「よく知っている佐藤優樹」をこのうえに探そうとする。つまり生活態度、表情、似つかわしい衣装や髪型、過ごしていそうな日常(ここに至っては完全に各自に独立した想像の領域だが、そうしたファンタジーの部分を持たずにメディア≠表象を享受している人間もまたいない)等々。
こうした、数えきれない佐藤像は結局のところ無形なのであって、我々が日常のうえで捉えたと、確たるものとして把持していると思っているそれは記憶の出涸らしでしかない。ために、いつまでも我々に現前するそれへは追いつき得ないのであって、またそれは、現前によって攪乱/攪拌される。今回のように。
話がそれたが、そうした期待は誌面によって裏切られ、このグラビアが見せるのは「よく知っている”と思っていた”佐藤優樹」でしかなかったことを突き付ける。
それはまさに、各々の読者が見るたびに、何度でも突きつける宙づりの謎のようなものだが、この文章の当の目的は現象学にあるのではなく、あくまで表象としての、本企画に表れた意図の追求と称揚にあるから、話はまたも誌面に戻る。
 
攪拌してゆく無形の佐藤のイメージ、モチーフ、メタファーといったものは、我々のなかでいつまでも分割され、隔絶したままではいられずにいつか統一した一個のなにかとなりふたたび像を結ぶ。
それは間違いなく理性の弁証的作用に他ならないが、この企画は読者の独断を許さず、先んじてそれをやってのけてしまっている。
それが図版にして右ページ下段左、つまり見開きの中央下部に控えめに位置した、白薔薇のこぶりなブーケを捧げ持つ佐藤のカットだ。
 
全体として上述のように赤と佐藤との混淆という枠からはみ出さない、その戯れじみた大胆なコンセプトの見開きの紙面の中で、色彩のうえでも、奇妙に趣向を少し変えたものになっている。
 
造花のようにも見える。それがまた妙といえば妙なのだが、ひとまず「花」という言葉だけで充分に、この見開きを、企画をダイナミクスのある終局へと導く。
実際に、図版として見てもそれは、というよりむしろその一葉だけは変わり映えのない、正面向きの佐藤の顔のすぐ下にいまを我が世と首をあげて咲き誇る白い花が控えていて、正方形に近い画角といい、その中でモデルの身体がトリミングされていることもあって、中心に座すこの花束に否応なく視線が向かう。
 
そこでこの花には、”象徴性”という特権が与えられることになる。四枚の写真で構成される見開きのなかで最も小さいこの片隅に、一度だけ登場するこの佐藤「以外の」花という、その意味を問われることになるのである。
 
この記事はこれまでの前半部でおよそ対象を絵として、つまり画面、平面としての表象という扱い方をしてきた。モデルの佐藤優樹から立体感を削ぎ落として、図、はたまた地という言葉を使って画面即ち四方形に裁断された一個の枠こそ絶対的な領域であるとする立場をとった。
しかしこれを読む者はこのモデルが有機的な人間であり、有限な人格を持つこともふつう了解しているし、特殊な層にとっては彼女はまぎれもなく既知の佐藤優樹である。
そうした既知の視線を跳ね返すカウンターとしての、表象の力がここには宿っていた。というよりは、その力から派生する形で先のような、くだくだしい述懐が生まれたわけである。
ただ、ふつうの立場としてはやはり佐藤自身に優位性を与える読み方が多数だろう。これは佐藤が主役に据えられた企画なのだから。
それでも、それを否定するような力がここには働いている。それは半分は、やはり佐藤自身のモデルとしての力量、並びに意図があると思わざるを得ない共謀的な「作品」である。
そうした否定の力は即ち、佐藤という人物性の否定。そして事物化。物語性の拒否と共に、客体化(語られること)の拒否による、不思議に人称を持たない客体による語り……主体化というねじれの構造である。
 その否定を被った読者の反芻はより広い、名前のない世界に放りだされて収拾がつかなくなってゆくかに思われる。佐藤であったなにか、根拠の見出せない色彩の統一、ポーズ。それは限りない平面性を漂うばかり。もとより、問いを立てること自体がこうした遠近法のもとでは無用である。
 
しかし、その遠大かつ迂遠な思弁の旅路は、意外にもすぐ隣の、この白薔薇の図版に辿り着き、そして終わりを迎える。
即ち、ここでの「赤」と佐藤自身は非常に緊密な関係を結んだ表象として現れたために、よく見ようとする者は、見ようとすればするほどこの二者を切り離そうとして困難を感じるのである。それは既知の佐藤を取り戻す試みであるわけだが、この現前の力強さに霞んでしまった記憶のなかの佐藤は、これに似たものを取り出そうとしても甚だ頼りないに違いない。
そこで非常に単純化された「赤ではない」のような、先のような反論が主導権を持つ。数々のアンチテーゼは、今回のように基になる図版がシンプルで明瞭なだけ、シンプルに力を持つ。
それが凝縮されたモチーフが、「赤ではない」白、「地上の」生命力、「咲き誇る美」としての”花”だった。 
 
 つまり、概念としての白い花は今回の佐藤や、佐藤を据える世界の反証命題に他ならない。
(むろん、これが造花であった場合有機的身体を持ち、それでいながらマテリアルな様相の佐藤というモデルと非生命かつ、自然のイミテーションという対比を為す訳だがここまで来れば児戯じみた言葉/概念遊びに近い)
この花はそうした探索としての彷徨を迎えあげてくれる恰好の終着地点なのだ。美的な観念によって閉じられたこの紙面に於いて、考えうるあらゆる佐藤優樹の可能性が、現実に結実し、かたちを取ったものこそ、この白い花である。思弁のうえに咲いた花である
この花こそ、変幻自在に思うままの見た目を取る佐藤の姿の、ひとつのバリエーションだとすることはそんなに突飛ではないように思われる。
 
上の鑑賞の中ではさんざん事物化、客体として扱われてきた佐藤というモデルが、事物ではなく、生命という属性を花の仮象を得て初めて勝ち得る。咲き誇る花束はその儚い栄華に於いて美を、生命を謳歌することで捧げもたれ、人物モデルだった佐藤と実に小気味いい対応する。その象徴的な意義の、最新の帰結として、ゆいいつ事物化を免れているのである。ここに至って主体と客体の逆転が起こり、佐藤は最終的にモデルから、主役の座を奪還する。
 
 
 
単一の要素で構成される世界といえば何を思い起こされるだろうか。
原子の世界、結晶、宝石、アリストテレス四大元素。――これらは、そのものとしてあるだけでは何にもならない。人間が複雑な構造を持つ存在であるがゆえに、なにかを媒介することで始めてそれらの有用性を導き出す。それは道具、他者、他の生物等。
そうした限りなくマテリアルで、それゆえに無限を思わせる事物へのオマージュとしてあった本グラビアの大部分は、最後にこうした有機的なイメージを挿入することで、それらを包み込み、構成するバックグラウンドを為す世界を告知するばかりか、そうした、ひとつの有機的な世界に還元される。
このポリフォニックな構造はそれ自体である理(ことわり)を、論理の力を借りずに、表現の力で以て証明している。仏教の曼荼羅図がそうであるように。ここに於いてそれは、生命賛歌、裏側から見た自然でなくて何であろう。 
 
 
最後に、3ページ以降はこれまでの鑑賞に費やした世界と大きくコンセプトを変え、佐藤がありふれた住宅街やその中に含まれる商店街で笑顔を見せている、スナップ写真になるが、これは人体、肉体、組成構造(つまり現代人であり年齢であり性別であり)を持つ、イチ出演者としての佐藤のプロフィールを申し訳程度に裏付ける、最初の一枚の伏線回収、スタッフロールのようなものであろう。
ついでに、その最初の一枚のタイトル、キャプションのフォントは、文字の細さ、優美な曲線があしらわれ、アールデコの特徴を備えているが、ここにも、20世紀初頭、本邦にいち早くアールデコを取り入れた資生堂の影響が見られることを付記しておく。